アダルト業界の歴史 1960~1970年代|ポルノ映画の終焉とアダルトビデオの台頭

激変するAV業界について、歴史を紐解いていきましょう。

1980年、アダルト雑誌出版社の株式会社九鬼が初のアダルトビデオを発売。

VTRの所有が普及し、アダルトビデオは旧態依然とした劇場用ピンクフィルムにはできなかった快適さを提供してくれました。

また、アダルトビデオはニッチな趣味に焦点を当てることができ、早送りボタンの便利さを提供していたのも大きいでしょう。

日本初の劇場公開ハードコア映画『白昼夢』(1981年)に出演した後、1981年11月にAVデビューした愛染恭子は、日本で最も早い時期からAV女優として活躍していました。

10月に宇宙企画を設立し、後にメディアステーションと改称。12月、代々木忠がアテナ動画を設立。

アダルトビデオは、劇場用エロ映画とほぼ同等のシェアを獲得していたものの、このようなアダルト市場での新たな競争に直面した日活は、最も人気のあったSM映画の制作に注力しました。

日本のレンタルビデオ店では、NEVAの認証を受けたビデオのみをストックする方針をとるようになり、NEVAに加盟するスタジオも増加。

1982年に日本で発売された初期のアダルトビデオ『洗濯屋ケンちゃん』は、アダルトビデオとしては異例の20万部を超えるヒット作となりました。

このVHSフォーマットのビデオの人気は、この時期にビデオレコーダーの売り上げを伸ばしたとすら言われているのです。

やはりエロの力は偉大。

この強烈な人気を受けて、1984年にオーキッド・インターナショナル社からアメリカで発売されました。

初期のAV女優は、劇場版ローマンポルノ映画やソープランドの女の子に仕事を見つけられずに苦労していたことが多かったそうです。

1983年にAVデビューした篠崎さとみは、2001年に映画監督を務め、さらに20年にわたって劇場映画のキャリアを積みました。

同じく1983年にAVデビューした橋本杏子は、AVを卒業して劇場映画のキャリアを成功させ、水谷慧のブレイク作『お天気お姉さん』(1996年)を含む100本以上の映画に出演しています。

その後、鬼才・村西とおる監督が登場し、準ドキュメンタリー的なAV撮影を展開するようになります。

1984年にデビューした神代弓子は、後に「イヴ」という芸名で日活の舞台映画に連続出演しています。

またこの年、ワンダーキッズは初のエロアニメ映画『ロリータアニメ』を発表。

この作品はすぐに成功を収め、日活はすぐにこの流れに乗って、同じタイトルで似たようなキャラクターを起用した独自のビデオ直撮りのアニメ動画を発表しました。

政府の新政策と映倫、ピンク映画会社の合意により、劇場公開映画に大幅な制限が加えられることに。

劇場公開されたピンク映画の利益は、この新しい判決が下されてから1ヶ月で36%も減少してしまったのです。

1985年、菊池エリは、Eカップという巨乳を活かした初期のAV女優が登場。

それまでにもアンダーグラウンドな動画を制作していましたが、正式にAVデビューしたのは1985年9月になります。

1986年には映画新潮社のAVや雑誌、劇場映画に出演。

2003年にはAV監督志望者のための学校「AVカルチャースクール」の講師・デモンストレーションを務め、AVデビューから23年後の2007年にもAVをリリースしています。

日活は、谷ナオミ主演の1974年のロマンポルノによるSMヒット作『花と蛇』を原作とした『花と蛇』シリーズ(1985年~1987年)を皮切りに、ピンク色の映画で観客をアダルト映画館に呼び戻そうとしました。

日活は、新劇場のルールを回避し、独自の領域に踏み込んでアダルトビデオに直接対抗しようとしていたのです。

アリスJAPANは1986年4月4日、Vシネマメーカーのジャパンホームビデオのアダルトビデオレーベルとして設立されました。

小林ひとみのAV業界でのキャリアは10年半以上に及び、「日本のアダルトビデオの女王 」の称号を得たほどの超人気に。

彼女の39本のAVは60万本以上を売り上げ、約60億円を稼いだというから驚きです。

週刊新潮の風俗編集者に「アダルトビデオ黄金時代の礎を築いたのは彼女だった」というと言わしめたほど。

黒木かおるは、率直かつ丁寧な性についての議論を展開することで、テレビで「フェミニスト」的な見解を表明。

この時代の女性たちから賞賛されるようになりました。

AV女優のイメージを変えた女優さんといえるでしょう。

このころ村西とおるは、日本のAVのトレードマークとなるドキュメンタリー形式を生み出した業界の革新者として知られるようになってきました。

日活はAV業界に対抗するため、小林ひとみを雇い、自身の劇場映画シリーズに出演させた。これらの作品は、プライバシーを重視するAVファンや、映画を観に来た人たちからは「あくまで映画の中のAV」という評価を受け、不評でした。

そして、ピンク映画最大手の日活が4月に制作施設を閉鎖。

「ベッド・パートナー」(1988年)は、17年の歴史を持つ「ロマンポルノ」シリーズの最終作でした。

日活は「ロッポニカ」の名で映画の配給を続けていましたが、「ロマンポルノ」のような人気や評価を得ることはできませんでした。

ピンク映画俳優として活躍する池島ゆたかは、1988年にAV業界で監督の道に入りました。

やがて1991年には劇場用ピンク映画の監督に転身し、そのジャンルへの貢献が評価されてピンクグランプリでいくつかの賞を受賞しています。

この時代の最大のAV会社となるダイヤモンド映像は、1988年9月に村西とおるによって設立。

彼は86年に黒木かおるがデビューした当時、クリスタル映画荘に勤務していました。

ドキュメンタリーAVのビジョンに共感した黒木は、村西の後を追うようにして新会社に入社しています。すごいカリスマ性ですね。

このように、1980年代はアダルト動画業界にとって非常に大きな変動があった時代なのです。

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