アダルト業界の歴史 1960~1970年代|ピンク映画からVHSの普及まで

国内のアダルト業界について学んでいこうと思います。まずは1960年代から

1960年代

1960年代後半の日本における「ピンク映画」、つまりアダルト映画の市場は、低予算の独立系企業が中心でした。

大映、日活、松竹、東映、東宝などの大手スタジオは、ヌードやセックスシーンの少ない、ストーリー性のある映画を中心に制作していた時代です。

1970年以降

ソニーは、劇場用フィルムの代替として、初のU-マチックビデオカセットレコーダーを発売。

フィルムは現像が必要でしたが、ビデオテープなら録音後すぐに再生することが可能、と便利でした。

ただ、当時のU-マチックは価格が高かったため、主にテレビスタジオや報道関係者の間で使用されていました。

テレビやアメリカ映画の輸入に押されて、日本の大手映画会社はシェアを維持するのに苦労していました。

東映は1971年に「ピンキー・バイオレンス」シリーズでエロ市場に参入。

日本最古の大手映画スタジオである日活の板持隆社長は、同社の高い制作価値とプロとしてのポテンシャルを、ピンク映画と呼ばれるアダルト業界に投入することを決断。

これは新たな観客を獲得するための手段として選択されました。

1971年11月、日活は『ロマンポルノ』シリーズと『アパート妻』シリーズを発売すると、よくできた芸術的なソフトコア・エロティック映画は、世間や批評家の間で人気を博しました。

その後17年間、日活は「ロマンポルノ」映画を多数制作し、月に平均3本のペースで公開した。

その後、新東宝映画やミリオンフィルムなどの大手スタジオが日活に続いて大作「ピンク映画」に進出していくものの、日活は日本の劇場用ポルノの製作者としては圧倒的な地位を維持したままでした。

1970年代末には、日活の「ロマンポルノ」は他のスタジオの「ピンクフィルム」と合わせて日本国内の映画市場の70%以上を占めていたほどです。

当時の日活、東映ビデオ、日本ビコッテの3大ビデオメーカーは、の3社が、作品の自主審査を行う成人ビデオ自主規制倫理懇談会を発足。

これは映倫管理委員会(映倫)の審査基準を準用していました。

1975年にはソニー、初のベータマックス・ビデオカセットレコーダーを発売。

U-マチックよりも安価で、家庭用としての購入の可能性を広げました。

1976年に日本ビクターが初のVHSビデオカセットレコーダーを発売。

その後数年間、VHSとベータマックスの間でフォーマット戦争が起こり、最終的にはVHSが勝利を収めました。

1977年に倫理団体は、日本ビデオ倫理協会と改称し、承認されたビデオにはNEVAのスタンプを押します。

NEVAでは、大事なトコロの上に大きな市松模様のモザイクを貼ることを義務付けています。

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